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第六十六話 一つにしないでください

last update publish date: 2026-10-11 10:34:58

 青羅への返事は、すぐには書けなかった。

 筆を持った梨花の手が止まる。

 白瑛も、墨を磨る手を止めている。

 蘭々は飴の袋を握ったまま、何度も口を開きかけて、結局閉じた。

 月琴は包帯を巻いた指を膝に置き、苛立ったように爪先を揺らしている。

 黒豆は、寝台の上でまだ眠っていた。

 時々、小さく「炭じゃない」と寝言を言う。

 そのたびに蘭々が「そうだよ」と返す。

 寝ている子供に返事をする蘭々は、たぶん白家が一番嫌う種類の人間だ。

 私は青羅の紙を膝の上に置いた。

『白家の子は、何になればいいのですか。

 罪人ですか。

 被害者ですか。

 証人ですか。

 子供ですか。

 人間ですか。

 どれか一つにしてください。』


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     青羅への返事は、すぐには書けなかった。 筆を持った梨花の手が止まる。 白瑛も、墨を磨る手を止めている。 蘭々は飴の袋を握ったまま、何度も口を開きかけて、結局閉じた。 月琴は包帯を巻いた指を膝に置き、苛立ったように爪先を揺らしている。 黒豆は、寝台の上でまだ眠っていた。 時々、小さく「炭じゃない」と寝言を言う。 そのたびに蘭々が「そうだよ」と返す。 寝ている子供に返事をする蘭々は、たぶん白家が一番嫌う種類の人間だ。 私は青羅の紙を膝の上に置いた。『白家の子は、何になればいいのですか。 罪人ですか。 被害者ですか。 証人ですか。 子供ですか。 人間ですか。 どれか一つにしてください。』 どれか一つ。 白家らしい言葉だ。 役目を一つにする。 名を一つにする。 迷いを削る。 痛みも、好きも、怖さも、全部削って、動きやすい形にする。 帳守。 香係。 炭。 鍵。 目。 耳。 手。 人間ではなく、役目にする。「一つにしたら」 蘭々がぽつりと言った。「楽なのかな」 誰も笑わなかった。 それは、軽い言葉ではなかった。 蘭々は自分の膝を見ている。 炭庫で打った膝。 包帯が巻かれている。「私、洗衣局代表って言われると、ちょっと楽な時あるんだよね。ただの蘭々だと怖

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    信頼を最後の封にした。 青羅の紙に書かれていたその一文は、薄い刃のようだった。 刺さっているのに、どこから血が出ているのか分からない。 蘭々なのか。 白瑛なのか。 景黎様なのか。 老医官様なのか。 皇帝陛下なのか。 母なのか。 あるいは、私自身なのか。 白家は、人を疑わせるのがうまい。 それも、ただの疑いではない。 疑うと罪悪感が生まれる相手を、わざと疑わせる。 信じたい人を疑わせる。 疑った瞬間、自分が少し汚れたような気持ちになる。 その汚れが嫌で、目を逸らす。 すると罠が動く。 嫌な仕組みだ。 実に白家らしい。「鈴花」 景黎様が紙を取り上げようとした。 私は反射的に押さえた。「まだ見ます」「もう十分見ただろう」「まだです」「顔が青い」「いつもです」「いつも青いなら問題ないと思うな」 景黎様の声が硬い。 怒っているのではない。 焦っている。 青羅の紙は、景黎様にも刺さっている。 信頼。 私たちが一番信じている人。 その中に第三封がある。 景黎様は、疑われる側にも疑う側にも立つ人だ。 皇弟。 死んだと思われていた人。 外朝に担がれかけた人。 そして、今は私の台車の横にいつもいる人。「景黎様」「何

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    青羅が消えた。 その報せは、火より早く後宮を走った。 内侍省の書庫番。 十五歳。 女として生まれたが、男装して内侍見習いとして育てられていた子。 白家の子の帳では、未覚醒。 けれど、赤紐を扱える可能性がある。 死帳の第二封を開く予備鍵かもしれないと見られ、保護されたばかりだった。 その青羅が、医療房へ移される途中で姿を消した。 残された紙には、こうあった。『第三封は、もう開いています』『還名裁議に、白家の名を入れよ。入れなければ、白家の子は全員、自分で名を捨てる』 白家の名を入れよ。 名を捨てる。 どちらも、嫌な言葉だった。 私はその紙を膝の上に置いたまま、しばらく見つめていた。 白い紙。 整った字。 筆の払いに迷いがない。 でも、最後の「捨てる」の一画だけ、少し力が強い。 怒りか。 恐れか。 あるいは、泣くのをこらえた手の震えか。「鈴花」 景黎様が、私の顔を覗き込んだ。「考える顔をしている」「考えないと困ります」「倒れる顔でもある」「それは別です」「別にするな」 私は台車の上にいた。 はい、台車だ。 もう説明するのも悔しい。 朝から老医官様に「寝台から出るな」と言われたのに、青羅失踪で医療房へ移され、今は医療房の奥にある小さな控え部屋で台車ごと固定されている。 固定されている、という言い方は嫌だが、実際、車輪に布が噛ませてある。 逃亡

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    白啓を死なせてはいけない。 そう決まった瞬間、部屋の空気はひどく嫌なものになった。 人を売った男。 母たちを壊した男。 白家の腹の底で、帳と香と名前を使い、人の人生に値をつけ続けた男。 その男を、必死に生かさなければならない。 白啓が死ねば、死帳の第二封が開く。 何が起きるか分からない。 分からないからこそ、止めなければならない。 人間というものは、時々、正しさとは別のところで胃が痛くなる。「……水を」 老医官様の声が飛んだ。 医療房の奥、白啓が運び込まれた部屋には、すでに数人の医官と薬童が走り回っていた。 白啓は寝台に横たえられている。 顔色は悪い。 唇も薄く、呼吸は浅い。 だが、完全に意識を失っているわけではない。 時折、まぶたが動く。 まるで、自分がどれほど周囲を慌てさせているか、確認しているようだった。 嫌な老人だ。 本当に、嫌な老人だ。「鈴花、顔」 蘭々が横から小声で言った。「顔色ですか」「顔も顔色も」「最近、そればかりです」「だって鈴花、白啓を見て『この人を助けるの嫌だな』って顔してる」「しています」「隠さないんだ」「隠す余裕がありません」 蘭々は、少しだけ困った顔をした。「私も嫌だよ」「はい」「でも死なれたら困る」「はい

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    白啓のいる隔離室は、朝でも薄暗かった。 窓は細く、香炉はない。 壁際には水桶。 扉の両側には兵。 床には、老医官様が撒いた白い粉が薄く残っていた。 毒や香の粉が落ちれば分かるようにするためだという。 その粉の上に、白啓の足跡はない。 彼は椅子に座らされている。 手足を拘束されている。 それでも、あの老人は相変わらず客人のような顔をしていた。「おはようございます」 白啓は言った。「ずいぶん大勢で。朝の挨拶にしては、物々しい」 誰も返さなかった。 景黎様は私の台車の横に立っている。 蘭々は梨花の手を握っている。 白瑛は帳を抱えている。 老医官様は薬箱を持っている。 景蘭様は輿の中。 皇帝陛下も来ていた。 梨花は、蘭々の手を握ったまま白啓を見ていた。 顔色は変わらない。 だが、手は冷たいらしい。 蘭々が何度も握り直していた。「白啓」 皇帝陛下が口を開く。「この子について聞く」 白啓の目が、梨花へ移った。 ほんの少しだけ。 本当にわずかに。 だが、いつもの白啓ではなかった。 人を見る時の、値踏みする目ではない。 帳を見る目でもない。 もっと嫌な目だった。 大切な品を、他人の手に触れられている時の商人の目。「梨花」 白啓は、柔らかく呼んだ。 梨花の肩が跳ねた。 蘭々がすぐに言

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